なにが?となるのも分かります。
でも二つを好きでやってる自分からすればこの二つの共通点が見えてくる。
あと、陶芸とフィルムカメラが好きな方へ。
フィルム現像したら「思ってたのと違う」窯から出すと「思ってたのと違う」てことありませんか?
そんなあなたに魔法の言葉があります。
目次
フィルムカメラと陶芸は似てる。
まず、思い通りに行かないところ。
陶芸もフィルムもなかなか理想の作品にならないですよね。
むしろ上手くいったらラッキーみたいな気持ちがうっすらある。
出来上がった作品をみて「もっとかわいくなるはずだったのに」とか「もっとオシャレな写真になるはずだったのに」とか思います。
どっちも技術は必要だが、結局最後は努力や技術ではどうにもならない一手が存在する。
次に、最後まで確認できないところ。
途中までいい感じにできたと思ったところで、最後の最後までどうなってるか分からない。
作品が焼き上がったとき「こんな予定では…絶望」となり、
キラキラした思い出を現像に出すと「暗いしなんの写真?」となる。
時間がたつにつれて期待も大きくなるから、がっかり感がすごい。
完成まで気が抜けない。常に長期戦である。
窯マジック、現像マジック
思い通りにいかないし、途中で確認もできない。
はっきり言ってめちゃめちゃに不便です。
粘土で形を作る、カメラのシャッターを押す。
そこから完成まではかなり時間が空く。はやく完成品が見たくてもどかしい。
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私の大学では通称【窯マジック】というものがあった。
(窯に入れて焼き上がったら想定外にかっこよくなる現象のこと。ほぼありえない。)
期限が迫ってたりすると絶対ダサい作品も一か八か焼いてしまう。そして窯から出てきたら「かっこよくなってくれ~」とみんな神頼みする。
その癖なのか、わたしは【現像マジック】にもついつい期待してしまう。
フラッシュ焚いてなかってけど「いい感じに写ってくれ〜」とか「近かったけどぼけないでくれ〜」
窯に入れる時、現像に出す時、わたしにはどうにもできないからただただ神頼みだ。
でも祈ったところで1230℃で焼き上がった陶芸も光が焼き付いたフィルムもかわらない。
これもまた一興
少し違う方向から見てみると、陶芸もフィルムカメラも、技術だけではない偶然とのコラボ作品だ。
どんなに努力しても報われないし、どれだけテストを繰り返しても予想外のことが起こる。
それでも、繰り返していくうちに「恐らくこうなるな」と勘でわかるようになる。
テストの結果をノートに書いていたら同じ条件のものはクリアできる。
完全にコントロールできない訳ではない。
陶芸やフィルムカメラでしか味わえない感覚である。
陶芸もフィルムカメラもほどほどのゆるさが必要である。
わたしは魔法の言葉で全て片付ける。
これもまた一興

この言葉のおかげで、完成した作品が想像と違う作品もピンボケ写真に対してもゆるく受け入れられる。
ブラッシュアップできないのがいい
1230度で焼いたり光をフィルムに焼き付けたあとは、もうどうすることも出来ない。
例えば絵画ならいつでも手を加えて更にいい作品にすることも可能だ。
デジタルカメラもフォトショップでいつでも手を加えられる。
このブラッシュアップの作業がこのふたつにはできない。
でも、わたしはこれが好き。なぜなら、自分で完成を設定しなくていいから。
絵やフォトショップにありがちなのだが、終わりどころがわからない。
もっとよくできる気がして、いつまでも手を加え続けてしまう。この引き際が上手な人がいい作品を作る人なのかもしれない。
陶芸とフィルムカメラは「窯に入れる」「現像に出す」行為が即ち【終了】ということになる。
わたしが引き際を見極めなくても、とにかく【終わり】なのだ。
作品をみて手を加えたくなったら、もう一度作るしかない。
「もっとこうしたい」という気持ちは次の作品に昇華する。
陶芸とフィルムカメラにはこれもまた一興という心が大切という話。
おわり。